そもそも『立場』とは…

~立場~
近世泊場間で馬や駕籠(かご)が休憩したり、引継ぎを行ったところ。 明治以降は馬車や人力車のことを称した。地方によっては馬をつなぐ場所、道路の休憩所という意味


▼『立場』のあゆみ

泉区のほぼ中央に位置し、区を横断する長後街道の中間にある「立場」は、明治の中ごろ、養蚕の発達で県央の相模原と横浜を結ぶ戸塚街道として活上を呈していた。明治二、三年頃、マユや製糸工場で使う石炭などを運ぶ荷車が通行し、従来する人たちの休憩所として青木近右衛門が交差点の各地に「立場」という商店を開場した。長後街道をはさみ南側(今の横浜銀行和泉支店)に数本の丸太を立て、馬をつなぐ場としていた。
当時、交差点付近は人家は少なく、農家は蚕を飼っていた。長後街道は大正三年に開通し、青木忠次郎は持田、大木と協力して乗合馬車を運行する会社を設立した。昭和十年代に合併や社名変更を経て、神奈川中央交通へと展開した。
大正五、六年ごろは、この道に馬車が交通機関として活躍していた。
「立場」は地名として通用し、店はヨークマートの中に移る。道路拡張が三回行われて、牛馬の繁留場は歩道や銀行の一階と駐車場の一部あたりになる。


▼『立場』のむかしを語る

「この辺一帯は田んぼと原っぱでした」と語る青木逸平さん(八ニ)を訪れた日は、神奈中バスの広い車庫の下で地下鉄工事が進んでいた。道路をはさんでヨークマートの一角に「青木商店」が見える。
酒屋さんだ。旧店名は「スーパーたてば」。「小さい頃はよろず屋で、焼酎、タバコ、漢方薬、女性用のくし、つけ油、ゲタ、わらぞうり、鼻緒、かごなどをを置いていました。」
当時、この辺りには養蚕農家が多く、絹糸を作るマユを生糸工場へ売っていた。農家に現金が入るのはその時だけで、青木商店への支払いも盆・暮れに限られていた。
大正四年六月、店が火事になった。その時、一人の女性が大きなお腹を抱えて田んぼを越え、農家へ避難した。そして出産。その赤ん坊が逸平さんだった。
「その時おやじはマユを買い集めている最中で、『火事だ!』という声に振り向くと、家が燃えている。自転車を桑畑に乗り捨て、消火に努めた」。そのおやじさんは青木忠次郎は、この辺りで初のバス運行免許の持ち主。乗合バスの走る路線を厚木までひいた人だ。
地下鉄開通後、交差点付近は大きく変わる、往時を知る貴重な人の話が聞けた。

参照:平成9月4月発行『地域情報誌 とっても泉』1997年SPRING No.1